概要
永禄4年(1561)8月16日、川中島の南にある妻女山に布陣した上杉謙信に対して、武田信玄は妻女山から千曲川を挟んだ茶臼山に陣を置いた。武田信玄は部隊を二手に分け、別動隊が上杉謙信の背後を突いておびき出したところを本隊で迎え撃ち挟撃する「啄木鳥戦法」を採用。しかし、上杉謙信はこれを見破り武田軍と激しくぶつかった。両軍で多くの死傷者を出しながらも決着はつかず、戦いは痛み分けとなった。
川中島の戦いの伝説として伝えられているのが武田信玄と上杉謙信の一騎打ちである。『甲陽軍艦』などの軍記物にはロマン溢れる様子が語られているが、史料には見られないので、本当にあったかは諸説あり、定かではない。
軍勢 | 武田信玄 | 上杉謙信 |
兵力 | 約2万 | 約1万3000 |
詳細
1
上杉軍は妻女山、武田軍は茶臼山に布陣
2
武田軍は海津城へ入る
3
武田軍の啄木鳥戦法を見破る
武田軍は馬場信春・高坂昌信が率いる別働隊1万2000を妻女山の上杉軍に向かわせ、信玄率いる本隊8000を八幡原に布陣し、待ち伏せする作戦(啄木鳥戦法)をとるが、上杉軍はこの動きを察知し、夜陰に乗じて密かに妻女山を下山し、千曲川を対岸に渡った。
4
上杉軍の車懸の陣で武田軍を攻撃
上杉軍は柿崎景家を先鋒に車懸の陣で波状攻撃を仕掛け、武田本隊に襲い掛かる。完全に裏をかかれた武田軍は鶴翼の陣で応戦したものの防戦一方となり、信玄の弟・信繁、軍師の山本勘助、諸角虎定、初鹿野忠次らが討死する。
5
武田別動隊が戦線復帰、挟撃された上杉軍は撤退
川中島の戦いは12年にわたり5度出陣し、信玄と謙信は対峙したが、激しく戦闘となったのは、第四次だけである。はっきりした決着はつかなかったが、信玄が善光寺を中心とする北信濃のほぼすべて、川中島周辺を己のものとしたので支配権を巡る争いとしては望むものを得ている。しかし、軍師・山本勘助や副将・弟の信繁を失い、多くの死傷者を出した結果である。
年月 | 概要 | |
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第一次 | 天文22年 (1553) | 信濃を追われた村上義清に助けを求められた謙信はすぐさま兵を率いて北信濃に入り犀川を越える。ただし、両軍が激しく戦うようなことはなく、約1か月で謙信は兵を引いた。 |
第二次 | 天文24年 (1555) | 上京して天皇や将軍に謁見して戻ってきた謙信は再び北信濃へ兵を進めた。上杉軍は善光寺、武田軍はその裏の旭山城に籠り、犀川を挟んで数ヶ月睨み合うが、今川義元の仲介によって和睦する。 |
第三次 | 弘治3年 (1557) | 武田が引き続き北信濃の諸城を攻略する中、謙信は善光寺に兵を進め、各地で小競り合いを行った後、上野原の地で合戦となる。明確な決着はつかず、足利義輝の仲介により和睦する。 |
第四次 | 永禄4年 (1561) | 前年に関東管領に就任した謙信は北条氏の小田原城を攻めるも失敗。北信濃の憂いを絶つために謙信は善光寺を経由して妻女山に陣取る。武田軍の啄木鳥戦法を見破り、一時は優位に立つが、別動隊が戻ってくると形勢は逆転し、謙信は退却する。 |
第五次 | 永禄7年 (1564) | 謙信は川中島へ兵を進めるも、2ヶ月ほど睨み合って、結局兵を引き上げる。飯山城をしっかりとした城に造り上げているので、防衛拠点作りが目的だったとされている。 |