概要
天正15年(1546)4月20日、河越城奪還を目指して挙兵した扇谷上杉朝定が対立していた山内上杉憲政や古河公方・足利晴氏を味方につけて総勢8万の兵で北条綱成が兵3000で籠もる河越城を包囲していたが、圧倒的な兵力差を覆すべく援軍に来た北条氏康に僅か8000の兵の夜襲に足利・両上杉軍は大混乱となり敗走した。
昼の戦いなら勝敗は逆になっていたとされている。また、足利・上杉連合軍がきちんと夜襲に備えていたら結果は違ったとされる。しかしながら、連合軍は数に勝ることに油断し、気持ちが完全に緩んでいたことが敗因と考えられている。
軍勢 | 北条氏康 | 足利晴氏 上杉朝定 上杉憲政 |
兵力 | 約1万1000 | 約8万【諸説あり:2~3万とも考えられる】 |
詳細
- 午前0時頃、北条氏康は8000の兵を4隊に分け、3隊を敵奇襲。残り1隊防衛の予備兵力として多目元忠に預けて戦況を見守らせた。
- 寝静まっていた上杉軍は奇襲に狼狽。着の身着のまま戦う者や逃げる者、同士討ちなど大混乱となった。
- 上杉憲政は上野・平井城に落ち延びる。
- 上杉朝定は戦死する。
- 綱成は城から討って出て足利晴氏を破り、敗走させる。
扇谷上杉家の勢力は衰退し、古河公方もかつての栄光はない状況だったので、山内上杉家は大きな勢力を有していたとはいえ、3者でせいぜい2~3万の軍勢であったと考えられている。
戦後は、扇谷上杉家は滅亡、上杉憲政は越後の長尾景虎を頼って逃亡、足利晴氏は隠居して氏康の甥・足利義氏が古河公方を継ぐことになり、幕府権威を後ろ盾にしていた者を一掃し、新興勢力の北条氏が関東を支配することになる。