河越夜戦

天正15年(1546)4月
北条氏康 足利晴氏
上杉朝定
上杉憲政
約1万1000約8万

天正15年(1546)4月20日、河越城奪還を目指して挙兵した扇谷上杉朝定が対立していた山内上杉憲政や古河公方・足利晴氏を味方につけて総勢8万の兵で北条綱成が兵3000で籠もる河越城を包囲していたが、圧倒的な兵力差を覆すべく援軍に来た北条氏康に僅か8000の兵の夜襲に足利・両上杉軍は大混乱となり敗走した。


桶狭間の戦い

永禄3年(1560)5月
 織田信長 今川義元
約2000約2万5000

約2万5000の大軍を率いた今川義元は織田軍の支城を次々と落とし、桶狭間山に陣を構え休息をとった。そこへ織田軍が正面から猛攻をしかけ、今川軍は独特の地形と悪天候も重なり予期せず総崩れとなり、総大将・今川義元は首を奪われた。


川中島の戦い

永禄4年(1561)9月
 武田信玄 上杉謙信
約2万約1万3000

川中島の南にある妻女山に布陣した上杉謙信に対して、武田信玄は妻女山から千曲川を挟んだ茶臼山に陣を置いた。武田信玄は部隊を二手に分け、別動隊が上杉謙信の背後を突いておびき出したところを本隊で迎え撃ち挟撃する「啄木鳥戦法」を採用。しかし、上杉謙信はこれを見破り武田軍と激しくぶつかった。両軍で多くの死傷者を出しながらも決着はつかず、戦いは痛み分けとなった。


関ヶ原の戦い

慶長5年(1600)9月
東軍西軍
 徳川家康 石田三成
約10万約8万

井伊直政が宇喜多秀家隊に発砲したことで火ぶたが切られる。しばらくは一進一退の攻防が繰り広げられるが、松尾山に陣取って戦局を見極めていた小早川秀秋が東軍に味方したことで戦局は大きく動き、西軍は大崩れとなり、徳川家康が天下分け目の戦いを制した。